私の好きな人 弓場さつき オカリーナ奏者 古くから伝わる楽器に新しい息吹を吹き込む若き才能 Part 1

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私の好きな人、オカリーナ奏者・弓場さつき。

活動する人。

初めて弓場さつきさんを知ったとき、こんな印象でした。
とにかく彼女はよく動く。

行動力があるから、あっという間に多くの山梨県民が彼女を知ることになりました。

心も強く、彼女はオカリナではなく他の道を選んでもきっと上手く行くと思います。

福岡の名門、福岡県立修猷館高等学校を卒業した女の子が一人でオカリナを習うために山梨県に来ました。
大変なこともあったと思います。

弓場さんから話を聞き、師匠の大沢聡さんも素晴らしい指導をしたことが分かります。
若者にとって良い先生がどれほど大事なのか伝わってきます。

今回からプロの編集者にインタビューの音源を渡し、編集してもらいました。

今までよりも読みやすくなっていると思います。

それでは、始めます。

オカリーナ奏者弓場さつきオフィシャルブログ「Azalea」

STUDIO fiato Official Website

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私の好きな人 オカリナ奏者・弓場さつきさん 山梨県と福岡県を拠点に活動する若き才能

オカリナとの出会い

- 弓場さんとは以前一緒に演奏もしましたね。

弓場さん:そうですね、懐かしいです。

- 1991年11月28日生まれだそうですが、すごく大人になられて。オカリナを始めたのは何歳の時でしたか?

弓場さん:10歳、小学校5年生の時です。

- ジブリの『となりのトトロ』が「さつき」という名前の由来なんですよね。

弓場さん:はい。オカリナを始めたのもトトロがきっかけでした。サツキとメイとトトロが夜に、木の上でオカリナを吹いていて。トトロのテーマソングにも、月夜にオカリナを吹く、という歌詞があるんですよ。そんな風にオカリナの存在を知りました。
 その後、小学校で習ったリコーダーにすごくハマって。笛が好きだったんです。10歳の時に「オカリナが欲しい」と自分から両親に言って買ってもらったそうなんですが、実は全く覚えていなくて(笑)。

- 福岡県福岡市のご出身ですが、地元の楽器屋さんでオカリナを買われたんでしょうか。

弓場さん:インターネットで取り寄せてくれたみたいです。当時は楽器店にはあまり置いていなくて。

- オカリナの演奏は実際どうやって学んだんでしょうか。

弓場さん:オカリナを買ってもらったものの、音が上手く鳴らなくて。どうしたらいいのかなと思っていたら、ちょうど父の友人でオカリナ教室で習っている方がいて、弟と一緒に教室に見学に行きました。そこで初めてオカリナの生の音を聴いて、「私もやってみたい!」と純粋に思ったんです。
 その教室でオカリナの持ち方から丁寧に教えていただいて。でも私、音楽の授業は元々好きじゃなかったんです。

- 好きなフレーズを吹ければいいかな、という感じですか?

弓場さん:リコーダーはすごく好きだったんですが、歌は下手だし、ピアノも習いましたが一瞬でやめたくらいです。でもオカリナは大好きでした。

- 最近のオカリナは大沢聡さんの演奏など緻密で進化したものが多いですが、当時は宗次郎さんなどシンプルな演奏が主流でしたよね。音域は1オクターブくらい出るんですか?

弓場さん:1オクターブ半なので、かなり限られた音域ではありますね。そのお教室は高校生まで、ずっと通っていました。当時オカリナの教則本というのはあまりなかったのですが、曲集はたくさん出ていて、教室に多かった大人の生徒さんは日本の童謡唱歌やポップス、簡単なクラシックの曲を学んでいました。私はジブリ作品が好きだったので、ジブリやアニメの音楽。自分の吹きたい曲を楽しく教えてもらう、というスタンスでしたね。オカリナ以外にも、小さい頃から習い事はいくつもしていました。

- きっと教育熱心なご両親だったんですね。

弓場さん:父はメルヘンな人(笑)。「さつき」という名前をジブリ作品から付けるくらいですからね。教育熱心というわけではありませんが、やってみたいと言ったことを全部させてくれたのはすごくありがたかったです。
 その頃、オカリナ教室の頻度は月2回くらいで、年に1回は発表会があって、習字やダンスなどの他の習い事と同じ感覚で続けていたのを覚えています。

高校を卒業後、医療の道へ進むか、オカリナの道へ進むか。

- 本格的にオカリナの道に進もうと考えたのはいつ頃だったのでしょうか。

弓場さん:高校2年生の時です。それまでは医療の道を目指していたのですが、障害者施設や高齢者福祉施設などの慰問演奏に呼ばれることがあり、中学校に上がった頃から伺っていました。施設のお年寄りは、中学生くらいの子供が来たというだけで喜んでくださるんですよ。そういう立場で病院などにも行ったりしているうちに、自分の中でそれが生き甲斐というか、喜びになっていきました。
 それで高校に入る頃に、医者とオカリナ奏者のどちらにしようという考えが生まれ始めていました。人と関わって、誰かが喜んでくれればいいなと。

- 整骨院を営んでいるというお父様の影響もあるんでしょうか。

弓場さん:あると思います。父の職場にはお年寄りの患者さんも多くて、私も当たり前のように接していたので。

- 慰問のキャリアも長いんですね。初めてお会いした頃、山梨県の老人ホームなどに行っていたのを覚えています。

弓場さん:はい、慰問用の曲の十八番もあるくらい。今でもお世話になっている施設や病院があります。

- その後、高校ではどうしていたんですか?

弓場さん:高校2年で文系・理系を決めるのですが、医学部用のクラスに入ったんです。でもその頃、あるオカリナ奏者の演奏を大分で聴いて、そこから急に、オカリナの方にパッとシフトしました。
 お医者さんになるのは台本通りに道がある気がしたけれど、オカリナ奏者になるには今のままじゃだめだろうとしか分かっていなかった時にその方に出会って。こういう人に着いていけばいいんだと思えたんです。その時は「高校辞めます」という勢いで、誰にも相談せずに学校に行かなくなり(笑)。受験を控えて頑張っているクラスメイトに対して、勉強する気が全くなくなった自分がいるのが申し訳ないような気もしていたんです。高2が一番ダークな時代でした。
 ただ、オカリナの道に行くとは言っても今すぐ自分で何かができるわけでもなく、思春期特有の落ち込みもあってその頃は学校に行かずに、ひきこもりに近い状態でした。

- 師匠になる人が見つかったものの、ということですか。

弓場さん:今になれば、なぜそこで行動を起こさなかったのかと思うんですが。自分なりに、葛藤していたんだなと思います。

- 多くの人は大学に行ってモラトリアムを経験しますが、弓場さんの場合は進路に迷う時期が早かったんですね。

弓場さん:両親とも相談して学校には行くことになったのですが、私がまさに反抗期の最中だったので、2人と険悪になった時期もありました。自分で決めたはいいけれど、その分、反発もあったという感じで。

- 意思がはっきりしているからということなんでしょうね。

弓場さん:人一倍頑固だと言われます(笑)。

その後の人生を決める、オカリーナ奏者・大沢聡さんとの出会い

- 高校卒業後はどうされたんですか?
 
弓場さん:卒業してからいろいろあって、もうオカリナをやめようかと悩んだ時期もあったのですが、今の師匠である大沢聡さんがコンサートで福岡に来られるから、個人的にレッスンをしてもらったら?と紹介してくださった方がいたんです。
 その頃にちょうど発刊されたオカリナの専門誌の創刊号の巻頭ページに、大沢さんのインタビューが載っていて、CDも付いていて、「なんだこの人は!!!!」と思っていたので、福岡で個人レッスンを受けてみたんです。

- その時に、「いけるかも」という感触があったんでしょうか。

弓場さん:オカリナを教わることが楽しい、と思ったのがその時初めてでした。でもその時は大沢さんに習うことになるなど全く思っていなくて、ただそういう方にお会いできる機会だから、と考えていました。その頃の私は、オカリナを続けていくために何をすることが正解なのか迷っていて。特に学校や教則本のある世界ではないので無秩序というか、なんでもありなんですよね。今までとにかく楽しく好きにオカリナを吹いていて、何も分からなかったけれど。
 ただ、大沢さんに会えば何か変わるかもしれないと感じていました。

- そのレッスンではどんなことを言われたか覚えていますか?

弓場さん:それまで言葉で教えてもらえなかったことを、大沢さんからは言葉で教えてもらえました。オカリナを吹くための技術的なことが、大沢さんのレッスンで初めて腑に落ちたんです。
 その後に食事に連れていって頂いて、オカリナ奏者としてどう生きていけばいいのかとか、そういった話をしました。それでもし本気でプロになりたいと思っているなら、短期留学のような形で来ていいよ、という風に言われて、その日は名刺を頂いてさよならしましたが、私の中では既に「山梨に行こう」と思っていました(編注:大沢聡さんは山梨県を拠点に活動中)。
 翌日「山梨行きたいです」と電話をしたら、「本気で言ってくると思わなかった」と言っていて、実は大沢さんは酔っ払いすぎてよく覚えていなかったそうです。まだ18歳だった私は人が酔って記憶を無くすことも社交辞令というものもよく知らなくて(笑)。でも大沢さんは「そんなに本気なら短期と言わず気が済むまでいていいから、旅行じゃなくて引っ越して来い」と言ってくださったんです。それが2010年6月末のことで、全部用事を済ませて9月10日に引っ越しました。

師匠の大沢聡さんの地元、山梨県の「内弟子」生活

- 弓場さんが山梨に引っ越したのは、同級生たちが大学に入学して半年経つ頃ですね。

弓場さん:そうですね。私は山梨にいるのは数カ月間だろうと思っていたので、大沢さんの事務所の近くに家具家電付きのマンスリーマンションを借りました。とはいえ大沢さんは演奏であちこち飛び回っているので、山梨に帰ってきた時にレッスンを受けて経過観察、という感じでした。課題を与えられて、どう変わったかを毎回チェックして頂いて、自己流で長年やっているうちについた癖をまず取り除くことから始まりました。レッスンを頻繁に受けられないことは最初から承知していて、その代わり事務所で仕事の仕方を学んだり、大沢さんのやり方を見ておくように言われていました。

- 大沢さんは元々サックス出身ですよね。オカリナは他の楽器演奏でいうとどの技術に近いのでしょうか?

弓場さん:リコーダーが一番近いと思います。指で穴を直接塞ぐという意味で。フルートなどはもっと近代的ですね。

- ここに来るお客様でも古楽器をやっている方がいますよ。

弓場さん:山梨は結構、チェンバロなど古楽器をしている方がいらっしゃいますよね。北に行くほど、そういう方が多いイメージです。

- それにしても、内弟子というとプロレスの若手の寮生活のようなイメージですね。

弓場さん:はい、弟子入りすると人に話したら、「どんなおじいちゃんに師事するの?」とヒゲのある仙人のような先生を想像した人もいたくらいです。

- 弓場さんを初めて知ったのは、県立美術館での演奏プログラムに名前が載り始めた頃だったと記憶しています。

弓場さん:2010年9月に山梨に来て、いろいろな音楽家の方に会うようになったのが翌2011年の2月くらい。東日本大震災の少し前ですね。県立美術館の演奏は震災で一度延期になり、5月にさせていただきました。あの頃はコラニー文化ホール(山梨県県立県民文化ホール)や美術館のロビーコンサート、 ラザウォーク甲斐双葉(ショッピングモール)の出演者募集の情報を自分で探していました。

- 18、19歳の頃からご自分で営業活動もされていたんですね。

弓場さん:師匠や事務所の方がいたからですね。当時から、大沢さんと一緒に演奏活動をしていたピアニストの後藤智美さんにもアドバイスを頂いて、いろんなことに挑戦していました。

山梨から「帰るに帰れない」忙しさに

- いつの間にかマルシェのイベントでも出演されていましたよね。

弓場さん:演奏しているうちにたまたま事務所近くのまちの駅でマルシェのイベントをやっていて、その頃は本当にどこでも行けるところに行って人に会おうと思っていたので、顔を出してみたんです。運営の方と話しているうちに「吹いてみて」という話になり、実際に吹いてみたら「うちのイベントでやってよ」と言われてつながっていったという感じでした。

- 10代の若さだったからいろいろなところに入っていきやすいというのもあったかもしれませんね。

弓場さん:それもあったと思います。その頃の私は大沢さんと事務所の人の2人しか山梨に知り合いがいなかったので寂しすぎたし、博多っ子は馴れ馴れしいんですよ(笑)。

- 老人ホームでの演奏を始めたのもその頃ですか?

弓場さん:だんだん知り合いが増えていって、間接的な知人が施設長だったり、そういった形で始まったんだと思います。

- お話を伺っていてすごいなと思うのが、普通の進み方ではないところですよね。よく仕事や経営となるとマーケティングの4P理論や4C理論というのを勉強するんですよ。プロダクト(商品)、プライス(価格)、プロモーション(宣伝)、プレイス(場所)なんですが、普通は演奏家の方ってその「プレイス」をライブハウスなどから始めると思うんですが、弓場さんは全く違いますよね。

弓場さん:楽器の種類も種類ですしね。バンドマンとはちょっと違うので、憧れはありましたが。

- そう考えるとマーケット(市場)が全然ないものなのに、10代後半でマーケットを自分で作ろうとしていたのがすごいところですね。なかなか誰でもできることではないと思うんです。

弓場さん:オカリナというものを、皆が「なんとなく知っている」という状態だったからですね。演奏家としてはコンサート会場での演奏をしていきたいですが、聴く人にとって最初のオカリナのイメージはどうしても森や山というものなので、そこで多くの人に聴いてもらって知ってもらって、他にもこんなことができると広めていければ、もっと自分がやりたいこと、例えばクラシックなどにもつなげていけるのではないかなと思っていました。

大沢聡という師匠について語る

- 弓場さんはオカリナのグループレッスンなどもやっていますよね。

弓場さん:最初は、近所の女の子の「オカリナを吹いてみたい」という声から始まったんです。大沢さんから、自分が教えるよりさつきが教えた方が年齢も近いしやってみたら、ときっかけをもらって始めました。そうするうちにイベントなどで「私もオカリナ持ってる」という方から個人的にアクセスがあって広がっていった感じです。
 オカリナを教えてくれるところも聴けるところも少ないので、好きな人は皆先生を求めていて、グループで自己流でやりながら先生を探していたという人たちもいました。
 大沢さんからは、教えることも勉強になると言われ、レッスンの最初の音出しのことだけ教えていただき、あとは自分で考えろと(笑)。自分なりに試行錯誤しながらやりました。

- 教えすぎないのが大沢先生の良いところですね。オカリナの世界の第一人者、開拓者だなという感じもしますし、いつか大沢先生にもインタビューしたいです。

弓場さん:まさに、全部の才能を持っている方。アーティストでありビジネスマンであるという両方をちゃんと持っている方です。

- 現在は日本各地のオカリナ教室で教えているそうですね。

弓場さん:山梨、長野、東京、名古屋、静岡、福岡で教室をしています。

- 今は生徒さんは何人くらいいるんですか?

弓場さん:山梨は定期レッスンで80名くらいでしょうか。他の教室は全員が定期的ではないので、ちょっとなんとも言えませんが。でもそれだけのことをさせていただけることは本当に幸せなことだと思います。

- 音楽で食べていくのはきっとサラリーマンより大変だと思うんです。それをオカリナという楽器でやっているのは本当にすごいことだと思います。

弓場さん:たぶん、私は社会経験がないからですね。いわゆる会社員の「普通の生活」をしたことがないからこそだと思っています。それを知らないからきっと強いんだろうなと。これからもそのままでいたいし、でもより良くしていきたいですね。私のようなケースがスタンダードになることはないと思うんですが(笑)。

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