私の好きな人 さわかみ投信株式会社 澤上篤人会長について。Part 1
※写真は2015年3月9日(水)に撮影されました。
私の好きな人 さわかみ投信株式会社 澤上篤人会長について。
今回は“さわかみ投信株式会社”の澤上篤人会長について書きます。
少し金融に詳しい方ならば、【さわかみファンド】をご存じかもしれません。
純資産総額が2,000億円を超える大きなファンドです。
澤上会長は“さわかみ投信株式会社”の創業者です。
経歴に書いてあるためか、稀にお客様から【さわかみファンド】について聞かれます。
金融商品を薦めることは私の意図するところではありません。
“さわかみ投信株式会社”を退職して10年くらいになります。
一つの区切りとして、澤上会長について書きたいと思います。
私の主観が入っているかもしれませんが、ご了承ください。
2004年、澤上篤人会長と私の出会いについて。
澤上会長について書く前に、澤上会長と私の出会いについて書きたいと思います。
2004年、私は澤上会長に出会い、【さわかみ投信株式会社】で働くことになりました。
2003年、金融の仕事に興味があり、色々と勉強をしていた頃です。
金融業界は激しく、顧客の利益と自分の利益が反していると思う会社も多いと考えていました。
悶々とした日々が続いていた頃、よく書店に通って、金融に関する本を眺めていました。
ある日、澤上会長の本が目に留まりました。
記憶が定かではないのですが、その本は【あなたも「長期投資家」になろう!―春に種をまき、秋の実りを待つ株式投資】でした。
2001に出版されて、既に絶版になっている本です。
この本で澤上会長のファンになった方も多いと思います。
とても誠実な内容の本でした。
時間が経つにつれ、「この人の側で勉強したい」という想いが大きくなり、思い切って澤上会長に電話をしました。
当時、【さわかみ投信株式会社】は事務所も小さく、事情を説明したらスタッフの方が澤上社長に電話を繋いでくれました。
当時、澤上会長は社長でした。
澤上社長 「はじめまして。ファンド仲間ですか?」
私 「はい。すいません。無給で構わないので、澤上社長の元で働くにはどうしたら良いのでしょうか。」
澤上社長 「それじゃあ、まずセミナーに来てみませんか?」
私 「分かりました。セミナーに伺います」と私は答えました。
後日、セミナーに行き、澤上社長の講演を聴きました。
暑い日だったような気がします。
セミナーの後、澤上社長に会いに行きました。
歩きながら、色々と質問しました。
その際、以下のような会話をしたと記憶しています。
私 「お電話でお話ししましたが、期間が限定で無給で構わないので、澤上社長の弟子になるにはどうしたら良いのでしょうか。」
澤上社長 「なんで、期間限定なの?」
私 「父親の仕事を手伝うため、山梨県に戻らなくてはいけないからです」
澤上社長 「分かった。それじゃあ、レポートを提出してくれるかな」
私 「分かりました。書いてみます」
http://www.sawakami.co.jp/recruit/guideline/
確認したところ、今でも採用の際にレポートの提出はあるようです。
私は【金融業界における投資信託の現状と“さわかみファンド”の存在意義は何か?】という論点でレポートを書きました。
後日、“さわかみ投信”から連絡があり、面接を受けることになりました。
その際、お会いしたのが今の社長の澤上龍さんです。
その場で採用が決まり、翌日から“さわかみ投信”で働き始めました。
私が澤上篤人会長・澤上龍社長にお礼を伝えたいのは、期間限定で働くと伝えているにもかかわらず、正社員で採用してくれたことです。
このことについては、本当に感謝しています。
2016年5月10日
インタビュー 澤上篤人会長の幼少期から大学卒業まで
2016年3月のインタビューを文字に起こしました。
― 澤上会長にはお世話になりました。私は10年前に“さわかみ投信”で働き、それで卒業というか退職して、今の仕事をしています。期間限定にも関わらず会長に正社員として採用していただいたので、ものすごい恩義を感じています。
澤上会長 そんなのいいよ。(笑)
― それで、私に出来ることを考えて。私はわりと文章を書くことが好きなので、ちゃんと会長がどういう方なのかというのを書きたいなと思って。今日、インタビューを申し込みました(笑)簡単な伝記のような文章を書きたいと考えています。
― 会長は、私の父と同じ年なので1947年生まれでしたよね。
澤上会長 そうです。そうか。お父さんと一緒なんだ。
― はい。だから完全に父と子くらいの年齢差になります。会長のお生まれは愛知でしょうか?
澤上会長 名古屋です。
― お父さまが材木商を営んでいたと記憶していますが、これは合ってますか。
澤上会長 合っているけれど、父親は材木商から製材工場から家の建築やら、幅広くやってました。
― じゃあ、木を使う仕事だったらなんでもするという。そういうことですよね。
澤上会長 そうです。
― そういうことですね。商売を手広くやってらっしゃていて、それで会長は名古屋で生まれて。大学を卒業したら、今度は松下電器に入られるんですか。ここまでの流れは合ってますか?
澤上会長 そう、そう。だいたい合っている。うん。
― そして、時代の流れとともにお父様のお仕事が上手くいかなくなった。
澤上会長 違う、違う。
― すいません。教えてください。どういう流れなのでしょうか。
澤上会長 小学校1年まで名古屋で過ごして。そこから長野県のほうに移りました。そちらで、材木とか製材工場をいろいろとやっていて、父親はかなり手広く仕事をしていました。
― はい。
澤上会長 だから、当時は相当のお金持ちだったわけ。ところが、自分が17歳のときに父親が死んじゃったわけ。
― 商売がどうかということではなく、お父様がお亡くなりになってしまったということですね。
澤上会長 もう、過労でね。
― 忙し過ぎてしまって。
澤上会長 そう、そう。仕事をし過ぎて死んじゃって。中小企業としては結構いい線いってたんだけど、そういう会社というのは当主が突然死ぬと、借金は取り立てられるけれども、債権は回収できないんだな。事業をやったら分かると思うけど。
― 分かります。
澤上会長 だから、かなりのお金持ちだったはずが、一気に貧乏になってしまって。長男だから家の借金を背負うようになってしまって。それが17歳のときです。
― 17歳多感なときに、そういう大変なことが起こったということですよね。
澤上会長 多感っていうか。(笑)まあ、そういうことだね。
澤上会長 そうね。食っていかないといけないからまず高校を出て、高卒で仕事に入ったんだけど。借金ばかりだったから。給料がめっちゃ低いわけよ。高卒だから。とても家の借金を払えそうもないから、おフクロに事情を言って、家に仕送りをしながら自分で大学に行くよって。大学を出れば、もうちょっと給料が高いと思ったから。
― はい。
澤上会長 それで名古屋の大学に行って、本当に大学の4年間って、ものすごいすさまじい生活をしていて。
― 勉強と仕事が両方だから忙しいですよね。
澤上会長 まず、生活費を稼がないといけないのと、家に仕送りをしないといかんやろ。それでバイトをしまくって。それから、学校の勉強も頑張って、それでサッカー部のキャプテンをやって、もう、とにかくメチャクチャやりまくって(笑)
― すごいですね。(笑)
澤上会長 最初は面白かったけど、ひどい状態になって。どれくらいひどかったというと。大学に入って最初の4カ月はね、バイトもまだ見つからないし、だから、そういうことで稼がないといけないからね、毎日、朝昼晩、10円のパンを1個ずつ食って、あと氷の水を飲んでいたんだよ。
― すごいですね。
澤上会長 だってお金がないからね。だから教科書も買えんわ、何もかも買えなくて、それで隣のやつに見せてもらったりしてて。それで、バイトをしていて当時きつかったのは、次のバイトを探すための交通費がつらくて。どこも交通費が出なくて。
― 交通費は先に出てくるんだけれども、バイト代が入ってくるのは後ですからね。
澤上会長 そういうことで、4カ月くらい経ってくるとバイトもだいぶ軌道に乗ってきたし、それから奨学金も降りるようになったから、それで一息ついて。
― その密度の濃いスケジュールで大学を卒業なさって、そのまま松下電器に入られたんですね。
澤上会長 そうなんだけど、もうちょっと大学のときに面白い話があって。
澤上会長 何かと言うと、大学に入ったとき、最初にオリエンテーションっていうのがあるじゃない。それで、どう見ても3年間で全部やれそうだったの。それで、その先生が言うのは、出来ないことはないから3年間でやってしまえと。それで、3年間で全部履修して、かつ卒論も大体あらかた書いちゃって。
― はい。
澤上会長 それで4年目はバイトしてて苦しかったけども、切り詰めたから一応はすごい楽で、半年間世界旅行してるんだよ。無銭旅行を。
― それはすごい。それだけ大変な状況だったのに、それでもまだ貯金をなさっていたということですよね。
澤上会長 まあね。大学時代はトラックの運ちゃんから何もかもやって、46種類くらいのバイトをやって。
― え、トラックのドライバーまでやったんですか?
澤上会長 やったよ。陸送もやってるし、色んなことをやってるよ。
― それはすごい学生生活でしたね。
澤上会長 46種類バイトをしてるんだから。
― すごいですね。その話は全然お聞きしたことなかったので。
澤上会長 それで卒論を出す寸前まで書いておいて、それで大学4年のときは半年間の無銭旅行で、ヨーロッパをずっと回って。
― そこでヨーロッパが繋がってくるというか、何かしらの感銘を受けることがあったんですね。
澤上会長 シベリア鉄道でフィンランドのヘルシンキまで行って。そこからずっと無銭旅行でイスタンブールまで。
― その頃のシベリア鉄道って、今とまた全然違うんでしょうね。
澤上会長 いや。あの頃もね、まあ今よりは古いけれども、結構、豪華だったんだよ。
― そうなんですか。勉強になります。
澤上会長 ソ連のね、インツーリストという国営の旅行会社があって、それで外貨を稼がないといけないから。だからそういうことで、1等の席しか売ってくれないけれども、そこが結構よくて。
― はい。
澤上会長 ましてやオレは貧乏学生だったから、そこでちゃんと飯が食えるじゃん。最高だったよ。(笑)
― すごいですね。そのときにヨーロッパを回って、本当にいろいろな体験をしたと思うんですけども。
澤上会長 うん。
― それで帰ってきてから、いったん就職をなさってということですね。
澤上会長 そう。それで卒業をして松下に入ったの。
― それが22歳・23歳のときになるということですね。
澤上会長 そうだね。
― それで、前に会長はおっしゃったじゃないですか。松下幸之助さんも非常に神がかっているというか、なんて言うか、やっぱり独特な雰囲気というかオーラがあったということをおっしゃっていたのを、私は聞いたことがあるんですけれども、会長が、今、なんかそういうふうな、こう。
澤上会長 ない、ない、ない!全然違うよ。オレはまだ。もう、もっとすごかったけど。
― ああ、そうですか。会長もそうですけど、偉大な経営者のみなさんの人というのは、私は顔を見るのがすごく好きで、顔が“乾いて”ますよね。なんて言ったらいいのかな。
澤上会長 乾いてる?
― 無駄なものがないと言ったらいいのかな。
澤上会長 (笑)
― あの、なんとなく伝わりますかね。研ぎ澄まされているというか。
澤上会長 オレ、今、ひどい顔してるけど。(笑)
― いえ、いえ。なんと言うか、ある意味、仕事が自分を磨いて、だから修行みたいになっているから。すごくいい意味で、お坊さんみたいというか、余分なものがなくなってくるから、そういう匂いが出てくるというか。
澤上会長 ありがとう。オレはまだ行ってないから。そこまでは行ってないからね。(笑)
2016年5月12日
今後、少しずつ澤上篤人会長について書いていきます。
仕事の合間にこの文章を書いています。
澤上会長についてちゃんと書くと、小冊子くらいの分量になってしまうので、小分けにして書き進めるつもりです。
少しずつこの記事は追記されていくので、最終的にとても長い文章になると思います。
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以下の記事を参考にしてください。
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