私の好きな人 【クリーニング志村 代表取締役社長 志村優さん】 創業70年の老舗を継いだ同級生の生き方と戦い方。Part 1

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クリーニング志村 志村優

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生活に根ざした仕事が好きです。

私が好きな経営者はサム・ウォルトンなので、地道に美しい仕事をしている人を見るとドキドキします。

志村優さん、クリーニング志村の代表取締役社長。
服を洗うことが彼の仕事です。
クリーニング志村は山梨県民の生活にしっかりと根づいています。

山梨県 甲府市 クリーニング志村

彼は幼稚園からの幼なじみです。
幼稚園・小学校・中学校を同じ校舎で学びました。
彼はリーダーシップがあり生徒会をやるタイプで、私はボーッとしていて窓際族なタイプでした。
昔のことを今でもよく覚えています。

中学校を卒業してから志村優君と会うことはなくなりました。

彼も私も高校を卒業してから山梨を離れ、社会人になって数年が経った後に山梨県に戻ってきました。

実家が商売をしていることや長男であることなど、彼と私は共通する部分が多いです。
同じような境遇の人は他にもいると思います。

以前から志村優君が頑張っていることは風の便りで聞いていました。
お互いに大人になり、無性に彼の話が聞きたくなりました。

1980年・1981年生まれの私達。

都会で頑張るか、故郷で頑張るか。
きっと、どちらも正解です。
また、その答えをおおよそ決めている年齢です。

今、メディアの特集などを通じて、山梨県は少し流行っていると思います。

人の集まりが町であり、市であり、県です。
同級生が頑張っている姿を見て、話を聞くことによって、今の甲府市をおぼろげながら感じることが出来ると思います。

それでは、インタビューを始めます。

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創業70年の老舗を継ぐということ

- スタッフ数は今どのくらいですか?先程、スタッフの方に対する志村さんの態度が柔らかいのを見て、いい関係性が伝わってきました。

志村さん:今、スタッフは73人ですね。…もし僕が50歳くらいで、僕が会社を大きくしていたとしたら話は違うかもしれないですが、僕の年齢もあるし、(会社を先代から)もらった人間なので、態度も考えますよね。

 でも、僕も常務として戻ってきたばかりの時はたぶんちょっと違って、自覚はなかったですが、もっと会社を良くしようとして強い態度に出ていたと思います。それでも自分が歳を取ったり、スタッフが辞めてしまうといった失敗もあって少しずつ変化したと思います。

- 具体的にどんな失敗だったんでしょうか。

志村さん:ある時、こちらが頼んだことと違うことをやったりしていたスタッフが、翌日に突然辞めてしまい、「常務に『日本語分かりますか?』と言われて傷ついた」と話していたそうなんです。その人は外国から日本に帰化した人で、自分としてはそれを言った覚えはなかったんですが、よくよく思い起こしてみると近いニュアンスの「言っていることは分かりますか?」と言っていたんです。指示と違うことをされたので。

 でも、僕がそこで怒りを表に出してそんなことを言う必要なんて、本当はないんですよね。言い方を変えて、「それじゃなくてこっちを先にお願いします」と言えば良かったのに。そういう失敗を僕もしています。

 今は、感謝の気持ちを持つようにしています。来てくれて、いてくれるだけでありがたい、と。受け売りではありますけどね(笑)。

- なるほど。かなり遡りますが、会社を継ぐことはいつから考えていましたか?

志村さん:子供の頃から継ぎたいと決めていて、大学は商学部へ行きました。

- 在学中に今の奥様とも知り合ったそうですね。

志村さん:はい、僕はゴルフ部に4年間所属していて、妻はチアリーディングをやっていました。大学にも生徒会があって、グラウンドや体育館使用の調整役をやるんですが、その運動部連合会に僕も彼女も入っていたんです。

- 地元に戻ってくると、なかなか出会いが少なかったりしますよね。

志村さん:僕、かなり引っ込み思案なので、地元に戻ってきたら彼女は作れないから連れて帰らないと無理だと思ったんです。妻とは大学2年になってすぐの頃に付き合い始めました。付き合った時に結婚まで考えていたわけではなかったですが。

- 大学3、4年になると就職活動が始まってきますが、いかがでしたか。

志村さん:会社を継ぎたいとは思っていましたが、いきなり入るつもりもないし、かといって他の仕事したいという思いも正直なかった。

 僕らの時は大学3年の夏が就職活動の開始時期なのですが、そのタイミングで父がC型肝炎で倒れたんです。父は入院し、母が1人で全部を負担することになってしまって、僕に家事の手伝いだけでも頼めないかと言ってきたので、実家に戻りました。

 そこで入院中の父のお見舞いに行ったら-それまで父から継いでくれと言われたことは一度もなくて、「継ぐ継がないはお前の自由だ」という人だったのですが。その時、父は「もし継ぐ気があるなら、回り道せず、他の仕事に就かずにクリーニング業をやったらどうか」と。僕は元々継ぎたいと思っていたし、父もそう言ってくれたので、それが一番いいかなと思えました。父は今も健在です。

 それで大学4年の時に1年間、住んでいた横浜の上大岡から飯田橋にあるクリーニングの夜間学校へ毎日1時間ちょっとかけて通いました。

家業継承に向けた修行の3年間

- 大学卒業後はいきなり家業を継いだわけではなかったそうですね。

志村さん:卒業後は同業他社2社で3年半、修行させてもらいました。最初は白洋舎さんの横浜支店でお世話になって、給料は安くていいから色々経験させてほしいとお願いしました。

 普通にクリーニング店に勤めても何でもやらせてもらえるわけではないですから。でも、いくらかでも給料をもらっている立場だと現場の都合に合わせなければならず、思ったように色々やらせてもらえなくて、勉強しに行った割に最初の1年は何も覚えられなくてすごく困りました。頼もうにも何の仕事があるかも全く分からない状態だから、何も言えなくて。

- 悶々とした1年間を過ごしたというわけですね。

志村さん:はい。でも1年目が終わるくらいから会社側が動いてくれて現場に入れるようになって、実際に商品を洗う作業など責任ある仕事を色々経験させてもらえました。その時に「クリーニングっていいな」と思ったんです。汚れていたものがきれいになっていく工程を体験すると、仕事をする上でのやり甲斐を感じられてすごく楽しくて。

 幸いそこそこ仕事ができるようになってきていたので、次は洗うだけじゃなく仕上げの仕事に移ることになりました。

 それまで働いていた場所は集中工場といって、いろんな支店から集まってきたものを洗って仕上げて配送するところだったのですが、中には小さな洗う機械と仕上げる機械があって、1人か2人で回すような、小型の工場もあります。そこに行くと1人で全部やらなきゃいけないので勉強になるということで、そういうタイプの店に行きました。入社から3年目の頃です。そこではクリーニングの作業だけでなく夏から12月まで、受付対応で接客も経験させてもらって、それで退職しました。

 その後は妻と結婚式を挙げて、大阪の別のクリーニング屋さんで1年ほどお世話になりました。妻は真面目な人で、うちの家業を継いだらきっと経理とかをやることになるから銀行に勤めた方がいいかも、とそれまで銀行で働いていました(笑)。

- 大阪の会社ではどんなことを?

志村さん:いろいろ勉強させてもらいましたけど、一番は、人間は肉体的にここまで仕事ができるということ。

- ちなみにそこも白洋舎のような大きな会社だったんですか?

志村さん:白洋舎さんは業界の中でも、頭1つ飛び抜けて大きいんです。しかもクリーニングの価格帯が高い。普通は大手が安いものですが白洋舎さんはちょっと特殊で、スーツ上下で2,000円ほど、うち(クリーニング志村)の倍くらいします。その次くらいの規模の会社はスーツ上下で700円ほどという、うちよりずっと安いところ。でもなぜか高価格帯が業界1位で、うちの業界はちょっと変わっているんです。

- 簡単にいうとフェラーリとポルシェが一番売っている、みたいなことですね。

志村さん:ベンツくらいかな。うちがトヨタカローラくらい(笑)。

 その大阪の会社、ノムラクリーニングさんの価格帯はうちと同じくらいですが、規模はうちより、全社で7〜8倍くらい大きい。白洋舎さんは100倍くらい。

- その会社にはどういう経緯で入ったのでしょうか。

志村さん:山梨市に東洗(東京洗染機械製作所)という会社があるんですが、ここはクリーニングの機械屋さん。

 ホームという一般衣料を洗うための機械だけでなく、ホテルのシーツ類などリネン関係を洗う機械も作っています。そこのユーザー会があって、他県のクリーニング店が情報交換や勉強会がずっと続いていて、私の父がその会で知り合ったノムラクリーニングさんで僕は修行させてもらいました。

- かなりハードワークだったという感じでしょうか。

志村さん:僕は大学生の頃にのらりくらりとしていた方なので、白洋舎さんの週休2日制で朝8時から夜8時でもヒーヒー言っていたんです。それが大阪で週休1日に減って朝8時から夜7〜8時までになったので。
 クリーニング業界は4、5、6月が衣替えの時期なので繁忙期になるんです。その時期は夜9時に帰れたら早い方で、下手したら日付が変わっちゃう。そういう環境だったので結構過酷でした。

 それでも不思議と、職場の和があるので楽しい。肉体的なしんどさはあっても、リーダーが愉快な人でその人のために頑張ろうという思いも出てきて、そこでリーダー像の大切さを学びました。

 品質も生産性ももちろん仕組みは大事だけど、結局は人の心が作るもの。現場のリーダーの役割は、その心の部分を向上させてみんなに気持ち良く仕事をしてもらえるように環境を整えることです。

人との摩擦、「シミ抜き」が気づかせてくれたこと

- それで1年を経て、いよいよ山梨へ帰るわけですね。

志村さん:ノムラクリーニングを辞める前に引き止められたんです。ちょうど新しい工場を立ち上げるところで、副工場長のような形で給料も出すので行ってもらえないかと。

 大阪での修行は完全に給料なしでやっていたのですが、そんな風に認めてもらえたことが自分としてはすごく嬉しかったんです。でも父に「もう1年残りたい」と話したら、「戻ってくれば副工場長どころか何でも経験できる」と一蹴されて、自分としては不満もありつつも戻ることにしました。そのうち2週間したら「親父が正しかったな」と思いましたけどね(笑)。

- 26歳になる頃ですね。そこで奥様と一緒に甲府に戻ってきたと。

志村さん:まず僕は工場から、妻は店に入りました。白洋舎さんは比較対象にならないんですが、ノムラクリーニングさんもすごく進んでいたから、それとうちを比較するとギャップがすごすぎて…。

- 県内だとクリーニング志村さんは進んでいるイメージですが。

志村さん:それはありがたいのですが、現場のオペレーションという部分ですごく差があって、例えば1時間当たり何着仕上げるかという品質も、うちはだいたい1時間に20着。向こうは30〜35着くらいできるんです。ということは3分の2くらいのペースということなのでメリットは大きいですよね。人の動きも違いますし、なぜなのかなと。

- その時点で社長のお父様と話し合ったりしたんですか?

志村さん:いえ、自分が正しいと思っていたから、「こうやりましょう」とどんどんやっちゃうので摩擦も激しくて。工場の人はそれでも割と着いてきてくれたんですが、お店の人が着いてきてくれなくて、最初の頃は上手くいかなかったですね。辞めはしなくても反発が起きている状態で、あの時はきつかったです。

 どうやってそれが解決していったかというと、その頃に、シミ抜きをやり始めたんです。戻ってきて1年くらい経った時に、静岡のクリーニング資材屋さんがセミナーの1つとしてシミ抜きの勉強会をやってくれて。資材屋さんはクリーニング店が儲からないと繁盛しないので、色々なセミナーを開くんです。

 月1回を半年間くらい、かなり猛烈に勉強しました。表向きの目的は、差別化。クリーニング志村という名前だけで生き残れる時代じゃないから、技術がなくてはだめで、その中でも一番分かりやすいのがシミ抜きだと。社内で誰もできなかったので、「志村に持って来たら大丈夫」と言われるようなシミ抜きをできるようになろうと思ったんです。

 裏の目的としては、これは資材屋さんも言っていたのですが、「そんな風に悶々としているなら、常務がいて助かったという経験をしてもらうのがいいのでは」ということで勉強会に通ったんです。それで成果が出て3〜4カ月目くらいから、勤続20年以上の人にもできないシミ抜きができるようになって、最初は内心「どうだ」という気持ちでした。

- なるほど。そのシミ抜きが社内にどう影響していったんでしょうか。

志村さん:スタッフの感謝の言葉を聞いて反省したんです。作業中に誤ってボールペンのインクが衣類に着いてしまった時などに「いいですよ、簡単だから」とシミ抜きをして返しました。そうしたらスタッフが「ありがとうございます、助かりました」と言って、うちとしても看板を傷つけないで済むので良かったのですが、それよりスタッフの感謝の言葉を聞いて、これが「仕事」だし、自分は何のためのこの技術を身につけようと思ったんだろう、と思ったんです。

 会社の差別化を図りたいというのはちゃんとした理由だけど、もう1つの方は人間が小さかったなと。仲間のために尽くしたいという思いがないとだめだなと思いました。

 そこから自分も気持ちを落ち着かせて人にフラットな態度で接するようになって、ちゃんとお願いができるようになったのはその頃からですね。振り返ると、自分にあまり自信がなかったのかもしれません。みんながある程度認めてくれて、自分に自信が出てきたからこそ、自分も相手と対等に接しないとだめなんだなと思ったんです。その頃から社内の人間関係がちょっとずつ良くなっていきました。

- 志村さんは「シミ抜きドクター」という呼び名でラジオにも出ていましたよね。

志村さん:あれは自称ですけどね。通常の料金内のシミ抜きはどのスタッフもできるのですが、薬品を何種類も使うようなシミ抜きは知識も技術も経験も必要なので、僕以外には女性スタッフ1人で全部やっています。
 
- 生産性の向上にシミ抜きと、ご苦労をされたんですね。お父様から会社を継いだのは何歳の時ですか?

志村さん:31歳の時です。今、父は会長で母は専務の役職です。

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